中国で生まれ、日本で成長する
私は中国で生まれ、日本で成長しました。中国での幼少期、最も楽しかった思い出はたくさんの友達と一緒にゴム縄跳びをしたり、砂お手玉で遊んだり、庭の泥で泥団子を作ったりしたことです。その時は、これから他の国へ行くことになり、一緒に楽しく遊んだ仲間たちと別れることになるとは思いもしませんでした。父が日本で仕事をすることになったため、まだ幼かった私も飛行機に乗って海を越え、見知らぬ新しい環境へとやって来たのです。
日本に来てみると、空気が違い、言葉が違い、見る物すべてがまったく違っていました。そして、その頃の私には、生活全てに生じたこの大きな変化をすぐに受け入れることは難しかったのです。幸いなことに、小学校の校長先生は空いた時間を利用して私に日本語を教えてくれました。他にもたくさんの親切な大人や友達が私を助けてくれました。程無く私は慣れない環境から、慣れ親しんだ環境へ、そして、見知らぬ環境から、よく見知った環境へと変化させることができました。たくさんの時間をかけずに、日本の環境に溶け込むことができ、他の子供たちと同様に、小学生から中学生、高校生へと順調に成長し、大学を卒業することができました。
言葉から習慣、歴史から人文学に至るまで、いろいろな点で、中国と日本が決して全く違う二つの国ではなく、途切れることのない文化の交流が今に至るまで続いているのだということを感じさせてくれました。中国での幼い時期の生活と日本で大人へと成長した私の人生が、他の人とは異なる、豊かな二重の文化と性格を持つ私に育んでくれたのです。
二胡(胡弓)
日本での二胡の演奏家・作曲家としての父、楊興新は、中国の伝統芸術である二胡、板胡、京胡など、いろいろな種類の胡琴の演奏芸術を日本の観衆に紹介し、それらの楽器を、ごく初期の知る人ぞ知るといった段階から、何千何万もの熱心なオーディエンスがいる段階へと発展させました。まるで二胡という一粒の種を、新しい水と土のある環境へと撒いて芽を出させ、他とはまったく違う芸術という果実へと急速に成長させたように思えます。
父は伝統的な中国の楽曲を演奏するだけでなく、長年、日本で生活する間に、二胡を日本の伝統音楽の要素と結びつけ、楊興新個人のスタイルを持つ多くの楽曲を生み出し、人の心を動かし、また打ち震わせました。他とはまったく違う芸術から、唯一無二の楊興新の二胡という芸術へと到達したのです。これまで、上皇陛下ご夫妻もご出席された中国の国家指導者を迎えて開かれた宮中晩餐会や、日本各地のコンサートホールなど, どこにおいても父への熱烈な拍手が鳴り響いていました。
このような父の影響で、二胡は幼い時の私にとってごく身近にあったのですが、ステージの上で華やかな光を放つ二胡は私にとって遥かに遠いもののように感じていました。しかし、自分の進路について考えていた時、頭の中に刷り込まれていた、何度も私を震撼させ感動させた二胡の記憶が、まるで魔力のような魅力で私を引き寄せたのです。
私が二胡とともに歩む事を決めた時、すべての条件が理想的とは決して言えませんでした。その時、二胡を学ぶのに理想的な年齢はすでに過ぎていました。シンプルな二弦の楽器が人の心の心線に触れるのは、まさにそれが容易には御せない一面を持つからであり、修得には多大な努力が必要となります。これは二胡の演奏という道をたゆまず諦めずに歩み続けられるかどうか、運命が私に与えた試練だったのかもしれません。
学びと伝承
大人になってから二胡を学び始め、また、プロの演奏家になると誓った私は非常に多くの努力を重ねてきました。そして、身近にいるたくさんの人々のサポートと励ましを得ることができました。そうするうちに、私は、二胡が生まれ、発展・繁栄した国、中国へと行き、そこで学ぶことを夢見るようになったのです。
中国は楊興新の二胡芸術が生まれた揺り籠であり、そして私が生まれた場所でもあります。2014 年、この一年が私に重要な転機をもたらしました。中国政府が日本の文部省を通して、中国政府による奨学金留学制度の応募が開始したのです。私は迷わず申請書を提出、その審査が通過し、面接に参加しました。記憶に残っているのは、両国政府の面接官が私の資料を見ながら、いくつかの質問をしたことです。
幸いなことに、私は中国政府の認定を受け、中国における音楽の最高学府である中央音楽学院へと留学する機会を得ることができました。その時から、私は子供の時と同じように、再び、はるばると海を渡り、よく見た場所から見知らぬ場所へと生活の場所を移したのです。中央音楽学院での私の指導教授は、私に対して厳格に、また思いやりをもって接してくれました。教授先生は、中央音楽学院の学生ならば学び始めたのが早い遅いに関わらず、しっかりと安定した基本能力を持っているべきだと考えていました。そのため、教授先生の私に対する要求はとても高いものでした。これは私が幸運だった一面でもあります。この学院で私は弛むことなく、多くの先生と学生たちの優秀な部分を学び取りました。それは私の技術と視界を新たな段階へと進歩させてくれました。また、私をサポートしてくれるたくさんの学友たちと知り合い、彼らと一緒に学び、同じステージで演奏し、私の能力を研磨させることとなりました。
時々、中国から日本に帰る際には、私が戻って来るのを心待ちにして下さる方々に会いに行くことを楽しみにしています。ですが、中国と日本を何度も往復していると、ときおり疲れを感じることがあります。そんな時、私に力を与えてくれるのが二胡についての学びとその伝承です。かつて、一人の年配の方が私に対してこう言いました。「古代においては、学ぶために遣唐使は大変な辛苦を厭わず、唐を訪れました。それが日本の文化に数えきれないほど多くの影響を与えたのです。あなたが今抱いている精神は遣唐使と同じく優れたものです。」私にとっては過度な賞賛に値するものですが、しかし私は常に信じてもいます、人の理想はいつも遠大なものだと。
楊雪にとっての中国と日本
今の私には、生まれた場所にも、成長した環境にも、または学生生活にも、すべて日本と中国という二重の要素が備わっています。
これらの多元的な要素が、私の音楽思想に深い影響を及ぼしています。これまでに、この二つの国が私に与えてくれたたくさんのサポートや温かさを実感してきました。中国人の豪快さと情熱、日本人の細やかさとこだわりが、私の内なる心を深く感動させてくれています。日本と中国の間で途切れることなく続いてきた歴史と人文の交流に、二胡が得た両国民の深い親しみが加わりました。今後、私の歩んで行く芸術の道において、自分の独特な人生経験と日中文化の融合に対する一貫した情熱を、唯一無二の魅力を備えた楊雪の二胡芸術へと転化させたいのです。
音楽が尽きない平和と友好をもたらし、
人と人との間にいっそう多くの愛と光明を持たせることができますように。